小さい頃から感受性が強く、
他人の感情や思考に敏感で、今からしてみれば、ふつうの大人から見れば扱いにくい子供だったかもしれない。
姉とよく魔法ごっこを楽しんでいたのを覚えている。
親が勉強や身だしなみにうるさく、
勉強が嫌いになり、息苦しさを感じていた。
思春期の頃は、グループ行動が苦手で学校も嫌い、スポーツも嫌い。人前で話すことを極端に怖れた。
学校へ行きたくなかった時期の私の支えは読書と内なる声との対話だった。
今にして思えば、それは本当の自分との対話だったのだが、外側の世界とのギャップにときおり混乱をきたし、なにもかも空虚に感じていた。
16歳である日突然、母親が出て行くという一瞬にして家族が崩壊するという体験をした。
それ以来、傷ついたインナーチャイルドを見ないように、
別の仮面をかぶり演じていた。
その様にして自分を守っているつもりだったのだ。
社会に出て政財界に関連する仕事に従事。
ブランドで固めた服を着て、外車を乗り回し、高級マンションに住んでいた。
毎日グルメな外食と少しの睡眠、不規則な生活が何年も続き、
若くして社会の裏を垣間見るショックとストレスから体調を壊す。
ある日、
居眠り運転で、車4台の玉突き事故を起こした。
ガチャンという音と共に、スローモーションのように映る映像が流れていた。
「何のために生きてるんだろう? 」
「なぜここにいるのだろう?」
「何しに来たんだろう?」
と我に還った感覚と、内側からの激しい渇望にも疑問に感じた。
最悪な事態のなか、
マインドは矛盾し混乱しているにも関わらず、
この冷静で平安な安堵感はいったい何なんだろう?
と頭で考えてもまったく理解不能だった。
目の前の問題とは完全に切り離され、
分厚い雲に覆われていた「私」という存在だけがただ在るのだ。そのどこか深い部分が
明るい光に照らされた強烈な今この瞬間。
いつも何かがちがう気がして、
これは私ではない、いや、ちがう、私ではないと・・
どこかで自分との違和感を感じていた。
それまで、マインドは、わけのわからない劣等感や不安、怖れというものに邪魔されて
少しも幸せを感じることができなかった。
だから「幸せを感じなければ」と、幸せを感じられそうなものごとを探し回っていた。
しかし、探せば探すほど見つからず、
空虚さを感じるほどだったのだ。
そのような体験から、
なぜ?なぜ?なぜ?
そんな思いが強烈に湧いてきて、
それまでの外的な生活スタイルをすべてやめ、
すべてを変えたいという衝動に駆られたのだ。
そして、初めて 瞑想の師、OSHOの本と出会い、
「存在の詩」「究極の旅」を読んで魂が震えた。
何の感情もわかないのに涙が溢れた。
そして放浪の旅にでることにしたのだ。
つづく