OSHO瞑想についての記事


瞑想と脳の退化 

~医学博士アムリト~


       
 考えすぎると脳は駄目になる、ということが最近の調査で証明された。彼等がまだ知らないのは、瞑想がそれを“食い止める”鍵だということだ。

 エコノミスト誌はそれを見事に言っている。「重労働が手に痕跡を残すように、考えすぎは脳に痕跡を残す」

 脳が適応性のある器官だということは、かねてから医学調査で分かっている。スポーツマンの脳とコンピューターを使う人の脳は違うのだ。

 1960年代にバークレーのカリフォルニア大学で行われた調査によると、刺激のある環境で育ったネズミは退屈な環境に置かれたネズミより、もっと密度の高い、複雑な脳をしている。もっと面白いケージに入れれば、年寄りネズミでさえ同様の変化を示す。細胞間のシナプス結合が多くなるのだ。古いことわざにあるように、「使わざるもの、持つべからず」だ。

 脳細胞が増加するだけではなく、必要なエネルギー源を調達する血液補給も増える。だから、「若くて好奇心のあるネズミは、同年代の退屈しているネズミより、神経細胞当たりのシナプスが20から25も発達する」だけでなく、エネルギーを運ぶ血液を供給する「毛細血管を80パーセント余計に」持っているのだ。

 アーバナ・シャンペーンにあるイリノイ大学での、ウィリアム・グリーノウと彼の研究員たちの最近の調査は、3組のネズミを対象にして行われた。——それは、違う環境に入れられた、“曲芸師”、“運動選手”、そして“カウチポテト(怠け者)”だ。曲芸師は調整を必要とする課題に挑み、運動選手はただ肉体的に頑張るだけ、カウチポテトには何も挑戦することがない。曲芸師は調整に関係する脳の部分に劇的な変化を示したのだ。

 では、使いすぎはどうなのか。考えすぎは脳細胞を破壊する、ということも分かっている。思考細胞が分泌する化学物質が消えるには時間がかかり、毒が脳細胞を殺す可能性があるのだ。

 フィラデルフィアにあるペンシルバニア大学の、ルーベン・グルが調査中の男性たちにリラックスするように言ったところ、彼等はリラックスできなかった。——彼等の脳は無意識に、前にしていたことを、それが何であれ執拗にやり続けるのだ。要するに、すべての瞑想をしない人たちのように、彼等は自分の思考に気づいていないのだ。

 これと対照的に、女性たちは脳の別の部分を使って、全く違ったことに考えを向けることができる。これが彼のもう一つの主要な発見である、男性の脳は女性の脳よりもっと速く駄目になる、ということを説明するかもしれない、と彼は信じている。
 幸先のよいスタートにもかかわらず、45歳になる頃までには、注意力の持続時間と記憶力の低下に伴って、“複合思考”を受け持つ男性の前頭部は、“同年代の女性の前頭部”と同じサイズに縮んでしまう。少年たちをアルツハイマー症候群が取り巻いているのだ。

 だから、驚くことではないが、脳は他の生体系ととてもよく似た働き方をするのだ。激しい活動の合間には休息を取る——というのが自然な機能のあり方だ。休息が欠けていると運動選手はトレーニング過剰になって、機能が低下する……同じことが脳についても明らかに真実だ。そして、呼吸に気づくことと、ストレス患者の心臓発作や運動選手のトレーニング過剰に先立つ疲労、またその他の慢性疲労症候群には、興味深い関係がある……それに、少なくとも運動選手の筋肉は睡眠中には休むけれども、私たちのマルチメディアな脳は休むことがない。それは夢という映画に切り替わり、ストレスを抱えて緊張した人には、全くの恐怖映画になってしまうこともあるのだ。

 同様に、意識の敏捷性やその機能と、リラクゼーションとの関係性が、他の調査で増々認識されていることは驚くに値しない。

 年齢に伴う脳の損失を軽減する鍵は、脳をリラックスすることができるか——それは、マインドを停止させて休ませるということだ。まず必要な第一歩は、自分の思考に気づくこと。これが瞑想のコツなのだ。そうすれば、あなたは実に驚くようなことを体験する。思考はとても恥ずかしがりやだ。あなたがそれに気づいた瞬間、思考は消滅し始める。後に残るのは、「あらゆる理解を超えた平安」



呼吸、ストレス、そして瞑想

         
 いくつかの調査が示していますが、「健康管理の専門家」を訪れる場合の何と60%から90%がストレスに関係した状態にあります。これは大きな痛みを伴い、たくさんのお金が動いていることを表しています。
 重要な変化の一つとして、潰瘍や心臓病の状態はストレスに関係しているということが、医療の専門家たちの間で受け容れられるようになってきています。もちろん、これは、医者の奥さんも看護婦も、医者自身も知っています。しかし、それは実際に公に証明されていないので、秘話的な事実としてだけ受け容れられてきました。
 ストレスへの対極的な側面があります。1匹の動物が別の動物の朝食になろうとしている時、どちらの動物もストレスを感じます。片方あるいは両方の動物がその遭遇から生き残れるかもしれませんが、どちらにしても、出来事はかなり短時間で終わります。迅速にことは運び、振り返って考えている時間はありません。白昼夢に浸っていたら、あなたが隣人の食事になるのを避けることはできません。油断のなさが鍵となります。
 対照的に、朝上司に侮辱された場合も、私たちはストレスを感じます。しかしこの場合出来事はゆっくりと進み、時には文字通り、一日中私たちのハートを食いつくすかもしません。
 短時間の強烈なストレスを感じている間、あるいはずっと引き延ばされている慢性的なストレスがある場合、二つの根本的な変化が起こります。一つは、基本的に化学的なものです。その生き物が最大限生き残ろうとするために、アドレナリンや他の化学物質が体の組織へと流れ込みます。ストレスによって引き起こされる化学的な変化の範囲は、広大です。ホルモンのレベルは変化し、免疫組織も影響され、神経組織も影響され、というように次々に広がっていきます。

 もう一つの根本的な変化は、呼吸に起こります。

 ストレスがある時の化学的変化についてはたくさんわかっていますが、呼吸の変化についてはとてもわずかしかわかっていません。これは、驚くべきことですが、化学上の研究は、複雑で費用がかさみ、患者に痛みを与えることがよくあるのですが、呼吸を調査することも決して簡単ではないからでしょう。

 そして測定されるこの化学的変化は、ほとんど完全に、意識領域の外側にあります。自分の現在のコルチゾールの数値がどの位かについてアイデアを持っている人はいるでしょうか? 体の異常が発見された場合でさえ、患者がそれについて対応できることはそれほどありません。

 呼吸は一方では自発的で、自然なまま、瞬間への有機的な反応です。しかしもう一方では習慣的、機械的、反応的になってしまいがちです。1本の木に輪をかけていくように、人生での感情的な経験の結果が積み重なっていきます。

 呼吸を観照することは、ゴーダマ・ブッダの基本的な主張で、瞑想へ、意識へ向かう方法でした。それは25世紀前のことです。ですから呼吸に対する経験では東洋の方が西洋科学よりがやや豊かだったのです。驚くべきことではありませんが、どの東洋の健康管理へのアプローチも呼吸に重きを置いています。その見解では、体の化学作用が乱れると、呼吸も自然ではなくなり、呼吸が自然なら、体の化学作用もうまくいくのです。

 ということは、有害な呼吸の習慣を捨てれば、病気を治せることになるでしょう。対照的に、ストレスに関係した病気のための、純粋に化学的アプローチから生じたもっとも効果がある治療法は、大部分は対症療法でした。すなわち、その治療法は、根本の原因にあまり触れないまま、症状を抑圧する傾向にあります? ひょっとしたら体が警告を発して出した痛みを、その警告が何なのか理解しないまま、抑えてしまっているのかもしれません。

 呼吸のセラピーは、化学的なセラピーとは違って、単純で、お金をかけなくとも利用できます。自然な呼吸は瞑想の本質です。ですからそれほど簡単なものはないのです。

 西洋のマインドにとっては、この課題について客観的な資料に欠けていると、それを受け容れるのが難しいかもしれません。でもこれも変化しつつあります。ある研究の論証によると、有機体がストレスを感じると、自然に呼吸の回数が増えます。人間の場合にはよくあることですが、ストレスが慢性化すると、呼吸も慢性的に回数が増えます。そしてそれによって体は二酸化炭素を不適切に失います。この二酸化炭素は炭酸から出されるため、過度の呼吸は、今度は過度の酸の流出を引き起こします。そうなると体は、phレベルでの酸に基づくバランスに敏感になってしまいます。Phの変化というよりはむしろ大脳の酸素欠乏症で苦しむようになるでしょう。これは体にとって深刻なことです。

 ですから、呼吸を通して起こるこの過度の酸の損失にともない、体は余計なアルカリを放出することでこれを補おうとします。長い過程を手短に言うと、このアルカリの損失が長引くと、体のアルカリ分の蓄積が減ります。そうすると今度は、運動した時に生み出す酸が後の再利用のために調整され、蓄積される地点に至ります。

 要するに、ストレスを感じれば感じるほど、より呼吸が増え、より多くの酸を失い、より多くのアルカリを排出するのです。そのようなアルカリの損失により、運動した時に乳酸を調整する能力を減らします。その結果ほんのちょっとした運動で、脚を痛め、呼吸はまた重荷を背負います。そして私たちは疲労しきったと感じます。

 ですから、あなたが典型的な心筋梗塞の患者なら、いわゆる何か不思議な心臓発作に突然襲われるわけではありません。実際は慢性的にストレスを感じ、慢性的に呼吸が増え、アルカリの蓄えを枯渇させ、だんだんに疲れていきます。記憶が悪くなり、集中力が鈍り、エネルギーが乏しくなります。それでも動き続けます。そうすると最終的には心臓が警告を発し、ストライキに入ってやっと倒れるのです。

 その時突然、なぜ休息が、新世紀の西洋の医学の大きな支えになるかが明らかになります。心筋梗塞の人はただ立ち止まって、本当に休息を取りさえすれば……

 休息が癒しにとって、必須の成分であるなら、休息が足りないことは明らかに、不健康な状態への必須の成分となるでしょう。言い換えれば、疲労によってほとんど確実にすべての病気が進行します。

 さらに重要なのは、まったく新しいことですが、エキソサイズバイク(健康管理や美容のための、車輪なしの固定自転車)に乗って、酸性過剰になるまで、人がどの位こげるかを測ることによって、疲れやすさを測れるのです。呼吸を増やす引き金を簡単に見つけて、測れます。

 ある疲労が、不健康な状態へと、どの程度のあたりまで傾斜しているかが実際初めてわかるようになりました。そして繰り返してテストすることで、その人がその傾斜をどの位の速度で進んでいて、どの方向へ向かっているかも明らかになります。
 呼吸への気づきは、瞑想の本質的な要素のひとつです。そしてそれは、瞑想が健康な状態にとても役に立つことを説明してくれてもいます。安らかに生きながら瞑想できれば、環は完結し、最終的には西洋の薬は、東洋の最良の薬と出会えるでしょう。






医師たちはこう語る

         
 ヨアヒム・ガルスカ博士は、ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、ホリスティックなアプローチを用いる精神療養所を運営している。そもそもの初めから、Oshoの瞑想はそのクリニックでのメソッドの一部だった。「ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです」と彼は言う。「それは無意識的な精神の、まだ手つかずの広大な領域をカバーするものです」

 ガルスカ博士は、Oshoの瞑想を患者の症状に合せて用いている。「結局のところ、人は孤島ではなく、有機的なユニティの一部なのです。ダイナミックは、相応に成熟し、常態として神経症的な人格をもつ人にとってはすばらしいものです。そのような人たちは、それを試みて、どんな効果があるかを見るべきでしょう。しかしながら、境界性人格障害者や精神病的な人格の人には、無理があるかもしれません。それはたいへん強力なツールなので、医師は自分がどんな相手にそれを勧めようとしているのかを見きわめるべきです」

 ガルスカ博士は、Oshoのクンダリーニ瞑想を、重度の精神的障害を抱えた患者たちにも勧めている。「身体のエネルギー・システムを起動させるというのが、Oshoの瞑想すべてのトレードマークですし、クンダリーニは、それがソフトで調和のとれた仕方で起こるようにしてくれるのです」

 48歳の快活な神経学者、精神医学者であるライナ・ファルク博士は、Oshoダイナミック瞑想(TM)を、毎月21日間、自分の患者たちに提供している。

  「患者たちは、ふたつのカテゴリーに入ることになります」と彼女は説明する。「ある人たちは偏頭痛、胃の不調、心臓の痛み、背痛、あらゆる類の心身症に悩まされています——医師たちが無力感を覚えるような人びとです。他方には、憂鬱や、潜在的な攻撃性に悩む人たちがいます。どちらのグループも、ダイナミックからたいへんな恩恵を得るのです」

 ファルクがダイナミック瞑想を提供しているのは調査目的ではなく、自分自身でもそれを行うことが好きだからだ。患者たちが彼女に話してくれたところでは、多くのことが起きている。もっとも最近のグループでは、頚腕症候群をもつ1人の男性が、痛みのせいで腕を動かせないため毎日注射をしなければならなくなっていた。ところがある朝、ふたたび腕を動かせるようになっていることに気づいた。ずっと落ち込んでいたべつの男性は、最初の週が過ぎたあと、妻と一晩中踊っていたと彼女に話した。「彼は大喜びでした」とファルクは回想する。「でもいまは、その新しいエネルギーすべてに関して、それが彼の人生にどんな影響を及ぼすことになるかということで、少し怖がっています」




慢性 疾患について

メルリット・マッキニー

         
 ニューヨーク(ロイター・ヘルス)——気づきによるストレス解消法と呼ばれる瞑想は、ストレスを軽減するだけでなく、様々な種類の慢性病を持つ患者たちの症状を和らげ、生活の質を向上することができるかもしれない、ということが新たな研究 の結果分かった。

 研究の立案指導者である、ペンシルバニア州フィラデルフィアにあるトーマス・ジェファーソン大学の、総合医学センターに勤務するダイアン K.リーベル博士によれば、気づきによるストレス解消法作戦は、患者に「できるかぎり自分の体験とともに在る」ことを教える。

 ロイター・ヘルスとのインタヴューで彼女が説明したことによると、この瞑想テクニックは患者たちに、「自分には恐怖や心配があるということを受け容れる」ように、しかも、生活の中での楽しみとバランスを取るようにと促すのだ。

 しかし、そのプロセスについてリーベルの言うところでは、「シンプルだけど、簡単にできることじゃないのよ」。

 このテクニックは様々な慢性病を持つ人たちのためになるようだ、とリーベルとその同僚は一般病院精神医学誌の近刊で報告している。

 癌から睡眠障害までの多岐にわたる症状を持つ136人の患者について研究したところ、8週間のストレス軽減のコースで、「生命力」のアップや痛みの緩和など、健康面が総体的に改善されたのだ。いくつかの客観的テストによると、健康に関する心理的な悩みとともに、体の症状もトレーニングの終わる頃には軽減した。

 また、トレーニング・プログラムの効果は持続するらしい、とリーベルたちは述べている。症状や生活の質、心理的悩みなどへの好影響は、瞑想トレーニングから一年経って患者たちにインタヴューした時にも保たれたままだった。

 「気づきによるストレス解消法の健康促進効果は、ヒーリングや人びとの苦しみの緩和といった、包括的な患者主体のアプローチで、従来の医学的な処置を補うことができるようだ」、と立案者は結論している。

 トレーニングを受けなかった「管理されている」患者たちと、参加者たちとの比較をしなかったのが研究の失点だった、とリーベルはロイター・ヘルスに語っている。

 リーベルは同僚と、癌や慢性的な繊維筋痛を有するような特別な患者たちのグループについて、このテクニックによって効果が変わるかどうかを研究したい、と述べた。

 気づきによるストレス解消法を改良することで、ストレスが関係したホルモンの変化などのような、特有な生体要素を突き止めることが、今後の研究でできる見込みがある、とリーベルは語っている。

 フィラデルフィアを本拠地として金融業務を行うアドヴァンタ・コーポレーションが、研究の資金援助をしている。

 情報元:一般病院精神医学2001年23:183-192



狂気を追いやる

ウィリフリード・ネレス博士

         
 CNNのニュースや携帯電話、サイバー・スペースによって興奮させられた現代人のマインドにとって狂気を追いやるというのは、難しいように思えるでしょうし、2500年前仏陀の弟子たちが行ったように、ただ静かな瞑想で座るというのは、考えただけでも不可能に近いように思えます。これを理解し、Oshoはアクティブ・メディテーション(動的瞑想)を作り出しました。社会学の元教授、ウィリフリード・ネレス博士が、ダイナミック瞑想によって、現代人、現代社会がいかに活力を取り戻せるかを述べています。

 朝の7時。息子が学校に向かう。私はパジャマを脱ぎジム用のショート・パンツとTシャツに着替える。これで十分だ。すぐに体が温まってくるだろう。というのは瞑想するからだ、正確には、活動的な瞑想だが。
 ダイナミック瞑想はとても奇妙な瞑想だ。とくに傍から見る場合はそうだ。はげ頭、頭をきれいに剃ったお坊さんが冷たい石の上に何時間も座るというイメージからは程遠い。厳かにマントラを唱えたり、神聖なことについて黙想するというのはさらに程遠い。ダイナミック瞑想の時間は朝早くで、そのメッセージはシンプルだ。目覚めなさい、だ。しかし言うは易し行うは難しでもあるし、私たち自身の内側に強烈な反抗心も潜んでいる。そのためこの瞑想では、実質的でエネルギッシュな激しい方法を用いて、私たちを揺さぶり起こす。私たちは幸とも不幸ともいえる時代に生きている。あらゆることが混乱状態にある。

 私たちにはもはやわからない……なぜ生きているのか、何のために生きているのか、自分が何をしているのか、欲しいと思っているものが本当に欲しいのかが。私たちは自分の立場を見失っていて、究極の夢を急速に失いつつある。それに気づいている人もいる。多くの人たちは多少それを感じはじめている。しかし大多数はそれについてまったく知りたいと思っていない。私たちはこの明白な事実を避けるために、仕事や娯楽、様々な活動に没頭したり、酒やドラッグに浸っている。
 カウンセラーたちはかつてないほど、人気だ。現代版のテレビ番組での電話相談や紙上相談だけではなく、占星術師,タロット占い師、八卦見などの伝統的な占い師たちにいたるまでそうだ。彼らはあらゆるアドバイスをあなたに吹きこむ。どうやって食べ、どうやって歩き、どこでどんな時に何を着るか、寝る時に頭をどちらに向けるか、金持ちになる秘訣、健康になる方法、健康維持の仕方。そして果てにはどうやって愛するかまで。

 けれども、これらの問いについてより良い助言や知識を得れば得るほど、もっと見失ったと感じるし、もっと取り残されたような気がしてしまう。いわゆる教え込まれた現代の意識というのは、とても不幸な意識のように思われる。文明が進めば進むほど、そこに暮らす人びとは、より神経症的で心理的に病み、いろいろな中毒になり自殺したがるようになる。
 私たちの時代の偉大な社会的ヴィジョンが、石鹸の泡のようにはじけ散ってしまって(最近なら社会主義の崩壊のように)、私たちの人生もまた、ただ通り過ぎてしまわなければならないものに成り果ててしまった。マックス・ウェーバーの言葉を借りるなら、「人間で在るかのように耐えろ」である。贅沢な暮らしがあれば十分だという側にいれば、それでO.K.だろう。しかし新鮮な食べ物でもいつかは必ず腐るように、裕福さというものが全てを保証してくれるとは限らない。どれほど豊かな暮らしを望んでいようと、それだけでは満足できないということを、深いところでは私たちはみんな知っている。

 私たちは夢を愛し、それが破れて傷つく。そもそも夢というものはそういうもので、私たちがどうこうできるものではない。私たちにできるのはせいぜい、その痛みを抑圧し、それを見るのを避けるために、目とハートを閉じることだけだろう。しかし、何か不幸なことが私たちに襲いかかるときがある。病気や事故、戦争、自然災害、人間関係の衝突、究極には自分自身の死、これらの不測の出来事に見舞われると、個人的にとらわれていた関心事に距離を置き、苦悩して自分自身に問いかけるだろう。「こんなものなのか? これが現実なのか」と。夢がこわされ、それがただの夢だと明らかになるといつでもそしてそれが粉々に砕け散るといつでも、私たちは目覚めようとする。

 しかし問題がある。私たちは目覚めたいのだろうか? 私たちは本当に迷いから目を覚ましたいのだろうか? いやむしろ、つらくとも最後まで自分たちの幻影にしがみつきたいのではないだろうか? 基本的には選択の余地はないはずだ。一瞬立ち止まり、目隠しを取って、この世界を見つめてみれば誰でも、実際には巨大な悪夢が見えるだろうし、この悪夢が比較的早いうちに炸裂することを理解するだろう。そして私たちの個人的な小さな夢もすべてそれとともに消え去ってしまうだろう。

 私たち、あなたたち、そして私自身は目覚めたいのだろうか? ダイナミック瞑想の伴奏音楽のテープを巻き戻している間、私には機械的に準備することがある。まず気泡ゴム製のマットレスを床に敷く。これは激しく体を動かした場合に自分の体を傷つけないようにするためだ。次に鼻を出来る限り徹底的にかむ。鼻は完全に通っていなければならない。そうでなければ何もかも台無しになる。この2つのことをしてから音楽をスタートさせる。瞑想の始まりを知らせる銅鑼の音が響き渡る、そしてすでに打楽器がそれに続いて鳴っている。床にしっかりと足の裏をつけて立つが、それ以外は動きやすいように体を緩める。口と目は固く閉じたまま鼻だけを使って、出来る限り速くて深くて混沌とした呼吸をする。もっともこういったことは説明書に書かれているが。今日はこの数日間に比べて調子は良かったが、呼吸がそれほど速くならなかったし、もちろん深くもならなかった。鼻孔はふくれて広く開かれているが、空気はほとんど入ってきていないようだ。

 私の左の鼻孔は最初の数分間はいつもそうなのだが、ほとんど閉じている。右側もかなり狭くなっている。本当にすごい勢いで息を吐き出し始めるまで、最初一分ぐらいはウォーミング・アップのつもりで行うので、思ったとおりに鼻が通らなくても気にしない。けれども今回は解き放たれているというよりは弱々しく感じる。でもたった今調子がいいなと思ったはずなのに。あぁ、そうか、気分がのってきたところで、もし完全にこの激しい呼吸に入っていったら、このささやかな満足感を失ってしまうのが嫌なのだろう。もう少しこの状態にしがみついていたくて、厄介なことに直ちに突入するのを避けているのだ。

 よくあることだが、私たちは本当には目を覚ましたがっていない。そう、嫌な夢や悪夢を追い払いたがるが、美しい夢となるとどうだろう? 私たちの多くは古き良き時代をあこがれている。そして現在の状態を嘆き、ずっと前にすたれてしまった遺物の中に解決策を見い出そうとしている。あちこちで、過去のナチスから来た亡霊が、どくろを紋章としたスキン・ヘッズのおぞましい姿を見せている。確かに彼らの観念はバカバカしくて愚鈍だ。しかし、私たちの社会は、何かそれに取って代わるものを彼らに提供しているだろうか?
 例えてみると、ビック・マックの代わりにキャビア、コカ・コーラの代わりにシャンペン、セックスとドラッグとロックン・ロールの代わりに出世? そして一番上には、理性のすばらしさを説く、不毛でまやかしと言ってもよい宗教の説教があるだけではないのか?

 理性は実を結ばない枯れた木になってしまった。「悪いけど、もう実はできないからね。それを理解して、生きていかなければならないよ」と言っている木だ。もし私たちにそれを直視する用意があるなら、自分自身の前途の見通しの悪さやビジョンのなさが、成り行き任せの若者たちの中に、鏡のようにはっきり映し出されているのが分かるだろう。同様に、死んでしまった麻薬中毒者、虐待された赤ん坊たち,性的虐待を受けた子どもたち,病的な人間関係,鉄道の側線のように哀愁に満ちた人生の行き止まりのような場所である老人ホーム、健康回復のための病院の延命治療棟や臨終棟で人間性を奪われた扱いを受けている人びと、アルコール中毒症患者、癌や心臓病,エイズ者たちにも、同じことが分かるだろう。

 真実を語る勇気を持った誰もがこう言えるだけだろう。「人生から何かを欲している人たちよ、人生は、食べ物やセックスだけではないし、ただ逆境に挑戦するだけでもなく、変えられないことをもっともらしく黙認するだけでもないと感じている人たちよ、もしあなたが人生を、その全てを十分に堪能したいなら、自分の力でそれを創造しなければならない。何のガイドブックもなく、自分自身の内側から答えを探さなければならない。それ以外のゴールはない。それだから、あなたはここにいるのだから。あなたはユニークだ。あなた、あなた自身がゴールであり、答えであり、意味がある。そう、あなた自身だ。」
 もう少しこれに付け加えておくなら、ヨーロッパでは時たま民族主義がその墓場から復興することがあったとしても、19世紀の遺産は永久に消滅してしまっている。

 社会主義の衰退や崩壊は、ある種の社会体制や帝国が崩壊するよりずっと多くの意味があった。宗教としてのマルクス主義の終焉も同じだ。それは広範囲の意義がある。マルクスとコカ・コーラの申し子たち、これは1960年代の有名なフランス人映画監督ジャン・ルック・ゴダールがその時代の反逆的な学生たちをまとめて形容したのものだが、今ではすっかりすたれてしまっている。今ではコカ・コーラが残っているだけだ。社会主義は、革命、いやひょっとしたらそれ以上のものだった、スピリチャルな大変動だった。それはガリレオの発見が、中世という時代に終止符を打ち、それとともに、その当時の普遍的的な宇宙論の確実性と一般的な世界観も無くなったことと同じくらい影響力があった。
 マルクス主義が無価値になったことで、人生の意味を探る熱い問いかけへの共通の答えを見い出そうとする西洋の最後の試みも終わってしまった。

 今はもうわかっている。何もないのだ。社会が与えてくれる最低ラインは、結局コカ・コーラぐらいしかないと受け容れないなら……それならば自分自身の中に何かがあると受け容れるだろう。でもあなたとは誰だろう? それは残された唯一の問題だ。私とは何者なのか? ここで早起きして、狂ったように鼻で息をしている。これが答えを探す手段だろうか?
 実際正気に近づくというよりは理性を失っているように見える。しかし議論のために考察してみるとして、この瞑想が、哲学者イマニュエル・カントが行なったことよりも賢明ではないと言えるだろうか? 彼は全生涯ケーニヒスベルクの象牙の塔に閉じこもり、自分の脳を酷使し理解不可能な長たらしい文章を大量に書き続けていた。彼が良しとする道徳的な行為に人びとを導くため、聖書の十戒をカント風の哲学規範に書き換えていたのだ。しかし実際、それによって、彼自身はまったく変わらなかった。また、マルクスが大英博物館の読書室で人類の救済を計画して行なったことも、賢明とは言えないだろう。

 これらの思想家たちは彼らの時代において可能な限り賢明でベストなことを行ったかもしれない。だが、今は私たち自身に目を向ける時だ。理論などではなく、その人間自身に。結局、私たちそれぞれ個人の総体が歴史を形作っているのだ。そしてそのためには、本は必要ない。本の中で見つられるのは、他の人の考えにすぎない。何度も焼き直されているとはいえ、他人の考えであることに変わりはない。必要なものは、自分自身の中をのぞきこむのを手助けしてくれる鏡だ。そしてダイナミック瞑想こそ、そんな鏡の役割を果たしてくれている。それだから私はここに立って、急行列車のようにハーハー息を切らしている。

 自分が瞑想に完全に没入できていないと気づいたら、高速ギアにギア・チェンジする。私の鼻孔はまだかなり塞がっているが、すぐに通ってくるのは分かっている。数分で自分の思考の画像が置き去りにされるほどのスピードにまでたどり着く。それがこのエクササイズの目的の1つでもある。思考が吹き飛ばされることだ。恐怖はない……それはすぐに戻って来るだろうが。今私に聞こえるのは、熱狂的なドラムに駆り立てられ、すごい勢いできれぎれになって吐かれる息だけだ。さらにもっと行くことが可能だと実感する(この、もっとはいつも可能だ)。そしてさらに息が深まる。何も考えられない。呼吸だけがある。もっと深く、速く、気違いじみた呼吸だけだ。それは完全に型にはまらずに素晴らしい。体のどこかで激痛を感じたら、ただそれに気づく。そして呼吸に戻る。ある速度の限界から、ある種の強烈さが始まり、私はただその中にいる。そして最大限へと向かうのは楽しい。ドラムがクライマックスに達する。その時第一ステージの終わりを知らせる銅鑼が鳴る。

 ダイナミック瞑想の第一ステージ、それは新しい生への目覚めだ。私たちに向かって「おい、起きろ!」と叫んでいるようだ。「太古の眠りから出て来い。甘い夢だろうが悪夢であろうが、夢の迷宮から出て来い。夢に囚われたままになるのをやめるんだ。自分の限界を捨てて生きよう! 息をして! しっかり息をして生きなさい! 生そのものである呼吸にあなた自身を開放して。吸い込めるだけ吸い込んで! 人生を哲学的に考察するのはやめるんだ。他人の夢の中に自分を見失なわないように。自分が本当に生きはじめるかもしれないその日を夢見るのもやめなさい。あなた自身で行なうんだ。今だ。この瞬間に「生きろ!」。呼吸が生そのものだ。人生での最初の呼吸と最後の呼吸は、私たち人間の存在が進む初めと終わりの両極にある。神が土で形作ったアダムに、息を吹き込んで命を与えたと言われているように。

 ヒンズー語で「呼吸」という単語、プラーナは、「生命の活力」という意味もある。ブレス・セラピスト(呼吸療法士)は、私の呼吸のやり方で私がどんな人生を送っているか読み取れる。私たちにはそれぞれの呼吸パターンがある。それぞれ、潜在意識上のトリックをもっていて、それにより、無意識にとって脅威的なある種の経験を避けようとする。それは、ただ単に呼吸のリズムを変えることによって行われている。それだから現代の心理療法はもちろんのこと、ヨガのような古来の流派でさえ、呼吸を使って、心と体に調和をもたらしたり、無意識の中に深く隠れてトラウマとなっている体験を明らかにして、それを癒したりする。
 しかし、このダイナミック瞑想の呼吸法は、調和をもたらすのではない。逆にカオスだ。深く速い呼吸が、私たちの精神の中にあるセメントのように凝り固まってしまったパターンを溶かす。全てをかきたててゾクゾクさせて、体内を酸素と生命エネルギーで満たす。私たちの精神と身体両方の構造、生まれ育った環境や条件付けによって作られた秩序を吹き飛ばす。

 私たちは、生本来の野性的な質、予測不可能さ、活力というものに近づきつつある。1960年代以来前進し続けているロック音楽は、人間の魂の必要性を示している。私たちの魂には、生の混沌とした部分、広がり、束縛されない行動が必要だ。それはギターやドラムの熱狂的なソロで表現された。全ての芸術家や子供たちはこれを知っている。ある腫の自由を与えられた子どもたちにとって、毎日が新鮮だ。それだから、彼らには違う時間の感覚がある。人生はもっと強烈で、発見や驚きに招きいれている。これこそイエス・キリストが「あなたが幼子のようにならない限り……」と語った時に意味していたことに違いない。どんな形もパターンもなく、ただ傷つきやすく好奇心旺盛で無邪気でいる。だが私たち大人はパターンにはまっている。いや、パターンそのものだ。あまりにもそれと同一化しているので、その事実にまったく気づいていない。私たちはずっと前に自らの無邪気さを失ってしまった。そしてもう一度それを取り戻したい。
 そしてもし人生をだらだらと引きずって生きるのではなく、楽しんで祝いながら生きたいのなら、もう一度この無邪気さを見つけなければならないだろう。

 だから、まるで地獄の全てが解き放たれたかのような勢いで息をするか、そうでなければもう一度生を取戻すなんてことはさっぱり忘れてしまうかのどちらかだという思いで、私はダイナミック瞑想を行なうのを決意した。もう一度生を取戻すということの本来の意味への恐怖は私たちみんなの内側にある。それはもっともなことだ。自分が注意深く維持している内側と外側のメカニズムが崩れたら一体どういうことになるのか、私たちには分からない。もしかするとヘラクレイトスが「隠された調和」と呼んでいた内側の秩序のようなものあるかもしれない。だか誰がそれを知っているだろうか? 誰も知らないかもしれない。私たちは何となく感じているが、わかってはいない。この地点で、マスター、覚醒した人物が、スピリチュアルな探求での中心的な役割を果たす。彼の中には(もし彼が本物だったら)この「隠された調和」、存在の内奥のハートの鼓動と調和した実存が具現化されている。彼の中に私たちはそれを感じられる。それは彼を通して声や姿、形を得ている。彼の中で、超越がただの抽象的用語ではなく、明白な現実となる。

 もちろん私たちは間違うこともあるだろう。スピリチュアルな道ではもはや、安全も保証もない。日本の禅や、チベット仏教にあるような大昔に考案された伝統的な瞑想技法は、何十年にもわたって忍耐強い実践を積んで、マインドをゆっくりと静めるようことを目ざしている。この2つの伝統はこの数年西洋で広く知れ渡るようになった。対照的に、Oshoダイナミック瞑想はどちらかといえばショック療法的だ。全ての瞑想テクニックはトリックであり、意識を眠り込ませないでマインドを寝つかせようとする試みだ。それは、ノー・マインド、マインドを超えた次元を一瞥するためのものだ。

 技法がうまく作用するかどうかは、個人によって異なる。しかし大昔の技法が開発された時に生きていた人びとはもう存在していない。私たちは今日まったく違う世界に生きている。ダイナミック瞑想は、神経症的で急いでいて混乱しているという現代人のための技法だ。それは、現代人のマインドの混乱状態が蒸発できるよう、それを沸騰させる地点まで連れて行ってくれるのを助けてくれる。これらの技法とともに、Oshoの発明の才能と天才的な資質のおかげで、瞑想への新しい道が、切り開かれたのだ。そしてそれは、かつてないほど濃厚でもつれてしまったマインドのジャングルを通り抜けている。